第六章ー私たちの返答

これまでは、私たち人類の現状、そしてその状態から神が私たちを救い出そうとしてくださっていることについて学びましたね。

今週は、この神の救いに「応える」ことについて学んでいきます。

神様に正しく対応する方法について話す前に、救いに関するいくつかの一般的な誤解について話し合う必要があります。

聖書にも自分の考えを推敲し、よりよく知ることの大切さが書かれています。

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

コリント人への手紙第二 13:5

救いの間違った解釈

このように、救いの誤解はいくつかあります。キリスト教への信仰は単にいくつかの言葉で表されるものではなく、決断の後の彼の人生そのものによって語られるものなのです。

一時の告白や、バイブルスタディでの祈りは真の救いの起点になりうるものです。あるいは空っぽの言葉、ふわふわした気持ち以上の何物でもないかもしれません。私たちは皆過去に、感情まかせに思ってもいないことをたくさん口にしてきました。

ならば、私たちの決断も、感情任せでなく本物かどうか、どうすれば知ることができるでしょう?


もしもその告白が福音を理解せずにしたものだとすれば、あるいはその後にキリストへ服従せず、彼に寄り添い続けることをしないのならば、そのとき真実と思っていた事は全て疑えてしまいますね。

自分の今まで考えてきた救いの誤解のどれかが当てはまりますか?

「私は生まれた時からクリスチャンです 。キリスト教徒の家庭に産まれ、いままでずっとクリスチャンとして生きてきました。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?


下記の節を読んでみてください。

ローマ人への手紙3:23
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

使徒の働き3:19
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

「私は、聖書が言っていることはすべて信じます。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

聖書を理解している、信じている、のみでは救いに十分なものではありません。

ヤコブの手紙 2:19 - あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪魔は超自然的な存在であるゆえに、私たち人間以上に「イエスが神の子である」ことや「イエスが人類のために死んだ」ことを知っています。それも、私たちにはない圧倒的な真実性でもって信じています。しかし、彼らがイエスについて知っているだけでは救済に繋がらないことは認めざるを得ないでしょう。

「祈ったことがある。神の存在を感じたことがある。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?


感情は意味のあるものですが、救済に足るものではありません。

ヤコブの手紙 2:19をもう一度読んでみてください。

ヤコブの手紙 2:19
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

「自分の救済に疑いはない」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

多くの人が、救いを決して疑ってはいけないと教えられてきたために、疑わないことが救いと同等であると考えています。パリサイ人(イエスの時代で最も熱心で宗教的だった人々)について考えてみましょう。彼らはもっとも自分らの救済の保証を疑っていない人々だったでしょう。しかし残念ながら彼らは完全に間違っていたのです。

マタイの福音書23:13, 15を読んでみましょう:
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

「私は教会での奉仕で頑張ってる!」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

マタイの福音書 7:21-23 を読んでみましょう:
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

「私は生まれた時からクリスチャンです 。キリスト教徒の家庭に産まれ、いままでずっとクリスチャンとして生きてきました。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?


下記の節を読んでみてください。

ローマ人への手紙3:23
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

使徒の働き3:19
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

「私は、聖書が言っていることはすべて信じます。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

聖書を理解している、信じている、のみでは救いに十分なものではありません。

ヤコブの手紙 2:19 - あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪魔は超自然的な存在であるゆえに、私たち人間以上に「イエスが神の子である」ことや「イエスが人類のために死んだ」ことを知っています。それも、私たちにはない圧倒的な真実性でもって信じています。しかし、彼らがイエスについて知っているだけでは救済に繋がらないことは認めざるを得ないでしょう。

「祈ったことがある。神の存在を感じたことがある。」

これに対して、聖書は何と言っていますか?


感情は意味のあるものですが、救済に足るものではありません。

ヤコブの手紙 2:19をもう一度読んでみてください。

ヤコブの手紙 2:19
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

「自分の救済に疑いはない」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

多くの人が、救いを決して疑ってはいけないと教えられてきたために、疑わないことが救いと同等であると考えています。パリサイ人(イエスの時代で最も熱心で宗教的だった人々)について考えてみましょう。彼らはもっとも自分らの救済の保証を疑っていない人々だったでしょう。しかし残念ながら彼らは完全に間違っていたのです。

マタイの福音書23:13, 15を読んでみましょう:
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

「私は教会での奉仕で頑張ってる!」

これに対して、聖書は何と言っていますか?

マタイの福音書 7:21-23 を読んでみましょう:
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

聖書における救い

救いとは無償の贈り物

最も重要なこととして、聖書において救いは神から無償で与えられたとしています。

エペソ人への手紙2:8は、あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と述べています。

(賃金とは違って)贈り物は本質的に、私たち自身が獲得したり、要求したりするものではあり得ません。

あらゆる善行や宗教的な儀式も、贈り物を獲得するすべとはなりえないのです。

贈り物は、ただ感謝の気持ちとともに受け取るものでしょう。

救いの本質は「関係」という贈り物

贈り物と聞いて想像するものは、綺麗に包装されていて、受け取った人の所有物となる何かじゃないでしょうか。

しかし、救いとは神と関係を受け取ることなのです。関係は掴むことも持って歩き去ることもできません。それは孤児があたたかい家庭に迎え入れられるように、本来存在しなかった関係を与えられることなのです。

救いが神との関係という贈り物であるという理解なしでは、

救いを天国へのチケットと誤解してしまうのではないでしょうか。

そしてそのチケットはカバンの奥にしまいこまれ、その人の人生や日常に影響することは決してありません。

救いは「正しい祈りを祈る」ことによって獲得される、というのもよくある誤解のひとつです。


おそらくは、“贈り物”という言葉が含む意味合いが、救済をまるで「物」かのような扱いをしてしまう理由でしょうか。

しかし聖書を読めば、これからずっと続く、神との「関係」を与えられることこそが

救いの本質がであることがわかります。

救いを「関係の提示」とするならば、私たちの罪の本質も、神との愛に満ちた関係の拒絶であることが見えてくるでしょう。

つまり、救われるということは、神と関係を再構築することを意味しているのでしょう。

さらにわかりやすい例えとして、物乞いの子を後継者にすることにした王様の話をしましょう。

ある日、王様が田舎を旅していた折に物乞いの男の子に出会いました。

思いやりにあふれた王様はその子と友達になり、彼に養子にならないかと提案しました。

男の子は王様を見て、その信じがたい提案が冗談でないと信じたのです。その提案に対して男の子は、王様の馬車に乗り込むことによって、王様の言葉を信じ、彼の人生を託したことを示したのでした。

その瞬間、男の子は彼の物乞いとしての人生は終わったと確信しました。彼はもう物乞いの時の服を着続けることはないでしょう。

生活の手段として、昔のように盗みや物乞いに頼る必要はありません。もし彼が提案を承諾したにも関わらず、王様とともに王宮に行かず、以前の生活を続けるとかたくなになるなら、それはなんと愚かなことでしょうか。

もしそんなことが起こったなら、彼は何をもって王様の提案を受け入れたと言えるのでしょうか。養子になった時から、物乞いだった子供は王宮の馬車に乗り込み、王様との親子としての関係を始めるのです。

関係を日々認識していく中で、その子供は王様にその息子として従うこと、尊敬し愛することを始めていきます。養子としての関係を受け入れることで、その子は王家としての素養、価値観を養います。

救い

救いという贈り物は、神からの愛と恵みの贈り物です。それは物質的な物ではなく、たとえば結婚のプロポーズであったり、かつて反抗した者に対しての寛大な王様からの養子の提案だったりするような、関係の提案なのです。

私の身代わり、イエスキリスト

救いという贈り物を受け取った私たちは神の子となります。

それは贈り物に含まれた「イエスの義」が私のものとなるからです。彼の義、正しさ、それは私の義となり、彼の貴さは私の貴さとなります。

著者のJ.D. Greear は下記のように言っています:

「福音が言っていることは、キリストが私たちの罪のために神の怒りを受けたということなのです。

イエス・キリストは私たちが送るべきだった

完璧な人生を送り、罪人である私たちの代わりに罰を受け死なれたのです。

第二コリント人への手紙5:21には

「罪とは何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

とあります。彼がまさに罪人となられたことから、私たちは文字通り彼の義となることができると言っているのです。

聖アルタナシアスはこれを

「偉大なる交換」 (the great exchange)と呼んでいます。

彼が私の罪状を取り、そのために死なれ、対価として私に彼の完璧な記録を渡されたのです。[...] 神学者の間ではこれを

義の贈り物(gift-righteousness)と呼びます。」

筆者JD Greear

以上をもとに、私たちはどのようにしてこの提案を受け入れればよいのか考えてみましょう。

これで第六章の最初の部分の終わりです。

さらに詳しく読みたい場合は、第六章のPDF版をここで見つけることができますまた、以下のビデオストーリーはイエスキリストの復活が個人の生活にどのような影響をもたらしたのかを語っています。

「私の物語」