コーヒーを飲みぼーっとしてる時とか。
眠れない夜とかには、たまに考えてたことはあるんじゃないかな?
について。
疑問に隠された疑問はこれ。
この問いの答えのうちに、私たちの「大きい疑問」の答えが含まれている。選ぶのは私たち次第。
または「ナチュラリズム」ー 世界は超自然的な説明なしで、科学的に理解できるという世界観
我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械(ロボット)なのだ。
『利己的な遺伝子』
この世界観から派生する人生観は何か
哲学者バートランド・ラッセルはドーキンスよりも50年前にすでにこう語る—
「人間はこれといった目的や計画の下に作ら れたわけではなく、ただ単に現れた存在である。
誕生、成長、希望、恐怖、愛、信念―そ れらも全て、たまたま原子のぶつかり合いが 生んだ偶然にすぎない。
熱意も、勇敢さも、 どれほどの思考も感情も、人の寿命を一寸た りとも伸ばすことはできない。
長年の苦労 も、努力も、献身もひらめきも才能も、太陽系が滅する瞬間と同時に消えて失くなり、
人類の繁栄など宇宙のチリと化す運命なのだ。
このような真実の連なりと不変なる絶望を受け入れることによってのみ、人は魂の安らぎを得ることができる。」
Free Man's Worship
無神論者ラッセルは自身の自然主義哲学世界観を貫きそれに対しロジカルな結論へと導いた。たとえ私たちの感覚や体験が人生には尊い価値や意味があると促しているとしても、ナチュラリズムが正しいならば人生に特別な意味などはない、それが真実。
この世界観が正しいなら、私たちは単なる「動く肉体」であるということ
感覚や体験が人生には尊い価値や意味があると促すならばそれはまやかしであるということ
同じような人生観をもった男の話が聖書にも描かれている。ルカの福音書12章15~20節から引用したこの物語をみてみよう
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。 なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。
それから人々にたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。
『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。
『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分の魂にこう言おう。
これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。
『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
この話の男性は、魂すら食べ物によって満たすことができるものだと信じています。ならば、最高の人生のために私たちがすべきことは、あらゆる欲求を満たし、痛みを避け、最大限楽しむことだと言えるのではないでしょうか。
人生ってそれだけじゃないはずだ!と感じるのは、ただの「気のせい」でしょうか。
デンマークの哲学者キェルケゴールは、人生を川の水面に投げられた飛び石に例えています。
言いかえてしまえば、どうせ皆必ず死ぬのだから、短い生きている間、何を成したとしても結局は
この結論に賛成できるだろうか?人生には意味があり、食べて飲んで楽しむだけのためのものではないはずだ、と感じる場合どうすればいいのか。自然主義哲学や無神論が出す人生の意義に対する答えはつまり無である。なぜなら科学的真実以外の真実は存在せず、科学的に検知できないものは存在しないという考えだからだ。
単に「悲しい考え方」なだけではない。自然主義は私たちが何をベースにして人生観や世界観を固めていけばいいのか、定義そのものにリミットをかけている見解なのである。
同時に、人間とは何なのか、人生の意味や命の尊さに対して答えをもたらす見解は別にあるのか。
聖書はこう主張しています。
私たち人間は、神によって
を持つように造られたので、物理的なものだけでは満足することができないと言うことを聖書は主張しています。
もし身体以上の存在である神が私達をも身体以上の存在として造ったのだとしたら、食や物理的快楽では満たすことのできない
を私達が感じていたとしてもおかしくはありません。
もしわたしが自己の内部に、この世のいかなる経験も満たしえない欲求があるのを自覚しているとするなら、それを最もよく説明してくれるのは、わたしはもう一つの世界のために作られたのだ、という考え方である。地上のいかなる快楽もこの欲求を満足させることができないとしても、だからと言って、この宇宙が食わせ物だという証拠にはならない。 おそらくこの世の快楽は、その欲求を満足させるためにあるのではなく、ただそれを喚起せしめ、かつ本物のありかを暗示するために、あるのであろう。
『キリスト教の精髄』
聖書の初めの数ページですでに、人間はたまたま原子のぶつかり合いが生んだ偶然の存在ではない、人間はそれ以上の存在だとうったえます。
では、生命の起源について考えてみましょう。そして聖書のよる人間のアイデンティティと目的は何であるかを見てみましょう。
キリスト教に興味を持つ人を待ち受ける最初の大きな壁は、聖書のはじめの数ページを読んで、 誤った万物創造の解釈をしてしまっていることで す。
例えば、ある人が化学実験の説明書を読んでいる としましょう。その人が実験手順を読み、「物語 の筋書きすらない、ひどい本だ!」と苛立つな ら、その人は文献のジャンルそのものを勘違いし ているにすぎないでしょう。実験手順の説明文に 登場人物やその歴史、筋書きなど全く必要ない し、その文献が責任を持つのは、いかに実験を行うのかと言う説明のみです。その参考書が説明す るつもりのないものの答えをそれに求めるのは理 にかなっていない、という事でしょう。
創世記を読んだ人がそれを無効化してしまうのは、参考書の例と同じように、創世記が説明するつもりのない答えを求めているからです。
創世記第一章の文献のジャンルは何でしょう?どのように解読すれば正しいのでしょうか?
創世記は、「HOW?」ではなく、「WHY?」や 「WHO?」に対する答えを提供しているのです。
注目してほしいところは、聖書は読み手に神がいるかどうかを証明したり説得するつもりが無い所です。(神の存在の有無に関する文献に興味ある方はこちら)
そのかわり、聖書は「神がまず動いた」ことを最初のページから宣言しています。
によれば、神は自身がおこなった創造に対して、くりかえし評価を表しています
創世記に描かれてる神はこのようなよく聞く神のイメージとは全く違います:
創世記の神の姿は全く違います:
この人間が創造話で特別な位置を保持しているからです。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 主 なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」
神の万物創造に関する聖書箇所では、ヘブライ語は人間の創造にあたって特別な「創造」を表す単語が使われています。
神は人間を創造する前に一旦止まり、深呼吸をして、作り上げたことが読み取れます。
他の生き物たちはそれぞれの種にそって作られたとありますが、人間は神をかたどって造られたと聖書は語っています。
神が自ら命を与えるために
を吹き込んだことから、人間と神の間に何らかの特別な関係があることも読み取れます。この「特別な関係」のひとつの理由に、私たちが肉体のみの存在ではなく、
存在としても創造されたからなのだと、聖書は主張しています。
神は私達人間がその美しさを感じ取るために素晴らしい世界を準備しました。大事な我が子の到来をうきうきと心待ちにしている、実に愛に満ちた父親の姿です。
創世記からは、
神の姿がみられます。
堂々とした山々、 美しい草原や川や木々はすべて、私達人間がその特有の美しさを感じ取るために準備されたものな のです。
あなたにとって神はどんな存在ですか?
もし神はいないという見解が真実だとすると、気に入ろうが気に入るまいが、それ故の結果も受け入れなくてはなりません。
私たちに存在価値や人生の意味をのぞむのは筋違いという理由から否定しなくてはなりません
神が居ないなら、この宇宙は壮大な偶然であり、とんでもない確率の重なり合いである。そしてそれが故に、存在する理由も無い。
人類という存在も、自然のいたずら、もはや異常現象である。創造にあたる計画性や理性を要さず、たまたま、とんでもない確率の中、生まれたもので、その塵が進化して理性を持つようになったならば、
人類の存在目的は昆虫のそれと変わらない。どちらも、偶然と需要の組み合わせの中生まれたのだから。
『Reasonable Faith』
しかし逆に、もし聖書が真実であり、神が私たち人間を造り、
が本当に存在するのならば、私たちは「科学的物質のひとまとまり」以上の存在であるということです。肉体のみの存在ではない、ということです。私たちが望む高き「何か」 はむなしい望みではなく、確かに肉体のみにとどまらない精神的存在であるからこその望みなのだ ということになります。