聖書を読むと、私たちの体験するこの世の問題、そして人類の問題の根源はこれだと語ります。
人類こそが、
と、創世記は語っています。唯一、神との「特別な関係」を持つ人類。この世で人間ほどの特権を持った生物は他にはいません。
同時に、この神との「特別」な関係には、
という選択肢も存在したのです。
神は自由意志を持ったものを創造した。
自由意志を持ったものとは、間違ったこともできるし正しいこともできる、そういう被造物のことである。ある人たちは、自由であってしかも間違ったことの絶対できないものを想像できると考えているが、わたしにはそんなものは考えられない。善を行なう自由を持つものは、かならず悪を行なう自由も持っているはずである。それにまた、悪の存在を可能ならしめたのは、まさに自由意志なのである。
それではなぜ神は人間に自由意志を与えたのか。その理由はこうだ―自由意志は確かに悪を可能にするが、しかしそれはまた、持つに値する愛や善や喜びを可能にしてくれる唯一のものだからである。自動人形―つまり機械のように行動する生物―の世界は、わざわざ創造するに値しないだろう。神が、自分の造った高等生物のために意図した幸福は、自由であることの幸福、愛と喜びの陶酔のうちに―これに比べたら地上の男女間のどんなに恍惚的な愛も水割り牛乳にすぎない―自発的に神と他者とに結びつくことの幸福なのである。そして、そのためには、彼らはどうしても自由でなければならないのだ。
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それに、私が自由意志を持たなければ愛という言葉は意味を持ちません。
ズーグル!私のことを愛してると言って。
それから神は、東の方のエデンに園をつくり、そこに人を住まわせました。
園には、あらゆる種類の美しい木が植えられています。どれも、極上の実をつける木ばかりでした。
神は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。
ただし、一つだけきびしい注意がありました。
「園の果物はどれでも食べてよい…
だが、『良心の木』の実だけは絶対に食べてはいけない。それを食べたら、あなたは必ず死ぬ。」
さて、主なる神が造ったものの中で、蛇が最も賢い動物でした。
蛇は女に、ことば巧みに話を持ちかけました。「ほんとうにそのとおりなんですかね? ほかでもない、園の果実はどれも食べてはいけないという話ですよ。神様は、これっぽっちも食べてはならないと言ったっていうじゃないですか。」
「そんなことないわ。食べるのは少しもかまわないのよ。ただね、園の中央にある木の実だけは、食べてはいけないの。そればかりか、さわってもいけないんですって。さもないと死んでしまうって、神様はおっしゃったわ。」
「ほおーっ。でも、それはうそっぱちですよ。死ぬだなんて、でたらめもいいところだ。 神様はわかっているんです。その実を食べたら、善と悪の見分けがついて神様のようになってしまうってことを。」
言われてみれば、そう思えないこともありません。それに、その実はとてもきれいで、おいしそうなのです。「あれを食べたら何でもよくわかるようになるんだわ。」女はそう思いながら見ていると、もう我慢できなくなり…
とうとう実をもいで食べてしまいました。
…そばにいたアダムにも分け与えたので、彼もいっしょに食べました。
禁断の実(創世記2:17)について読むと、そもそもそれは神が人類を陥れるための一種の罠だと誤解する人もいます。
それではエデンの園とは実はどのような場所だったのか見てみましょう。
木々に埋め尽くされていた場所であったと書かれています。
そもそも、その果実自体が他よりも美しかったり特別だった訳ではないのです。その果実は
選択自由がアダムとイブに与えられているという現実が実体を持った、すなわち象徴的な実でありました。
果実を手に取って食べる、という行為自体が道徳に反する訳ではない事はお気づきでしょう。「禁断の実」が関係上の比喩である事を知らなければ、
たかが果実をを食べるか食べないかという道徳的に中立な行為がなぜ聖書では人間の原罪と呼ばれているのだろう、と不思議に感じるのも仕方ないかもしれません。
である事です。
ここで、夫が妻との喧嘩の末に、無言で結婚指輪を外し、家から立ち去る姿を想像してみてください。
たかが指輪を手渡すことをなぜそんなに大ごとだと感じてしまうのでしょう?
同じように、「禁断の実」を口にする事が悲しい結果をもたらしたのは、果実自体が悪かったのではなく、その行為の意味のせいだったのです。それは、アダムとイブが神との関係を自ら投げ捨てる事を意味していました。人間が、自分たちを創った存在、
天なる父である神を拒絶した事
を意味していたのです。
でも、聖書には、このような悲しい物語こそが人間と創造主である神との関係の現状なのだ、と書かれています。(ルカによる福音書 15 章より)
もらう物をもらうと、何日もたたないうちに、弟は荷物をまとめ、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩に明け暮れ、財産を使い果たしてしまいました。
ある日、弟のほうが出し抜けに、『お父さん。あなたが亡くなってからでなく、今すぐ財産の分け前がほしいんです』と言いだしたのです。
イエスの時代の当時、こんなたとえ話を聞いた人は皆必ずショックを受けたでしょう。財産の分け前の相続は当人が亡くなった後のみに与えられるからです。息子がお父さんに相続権を要求することは、父親に死を求めることと同じでした。それはとんでもない、父親を傷つける行動だったのでしょう。
イエスはもっとよく説明しようと、また別のたとえも話されました。「ある人に息子が二人いました。
拒絶や裏切りによって誰かを傷つけた時のことはありますか。
創世記1章に描かれている神の、優しい親心を思い出してください。
拒絶を受けるほど傷つくものはありません。愛が深ければ深いほど、痛みも痛烈なものです。
アダムとイブが創世記三章五節で蛇の言葉を聞いた時、神様の関係から足をとったのです。
「その実を食べたら、善と悪の見分けがついて神様のようになってしまうってことを。」
私たちを誘惑するこの言葉が意味しているのは、「何が善で何が悪かを自分で判断が出来るようになる」つまり、
「私の人生の主人、魂の船長は私自身である。」
ウィリアム・アーネスト・ヘンリー 「インビクタス」より
「罪とは神から離れていくこと。」
マルティン・ルター
「罪とは、存在の起源を自分とし、自身を頼り、自分の力のみで生きていくと信じること。」
聖アウグスティヌス
アダムとイブはもう決意を固めていたのでした。これからは、
善悪の基準も自分で決める。
真実も道徳も、個人の見解と判断に任されるようになったのです。
自分よりも権限を持った
自らが権威の立場をとり、いかに賢く生きるかを尊び、自分の運命は自分で握るようになりました。
このように
自分の運命は自分で握りたいという願望をあなたはどれくらい持っていますか?
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私たちの言葉に置き換えるなら、「自身の魂の所有権を保持したがった」のです。しかしそれは嘘に生きるということでもありました。なぜなら、この宇宙のどこか一つを取り、神に対して「これは俺のだ。あんたには関係ないだろう。」と訴えるに等しいからです。しかし、宇宙にそんな空間など存在しないのですから。
C.S. ルイス, 痛みの問題
この神からの離脱は、私たちと神との間に大きな割れ目を作り出しますが、私たちの生活にも影響をもたらします。これらの影響が何であるか、そして私たちは何をすればいいのか、を次のセクションで見ていきましょう。