このコースでは、
これまで考えてきたこと、新たに気付いたことを踏まえて、この問いをもう一度真剣に考えてみましょう。
そうするとき、私たちは死という
現実を避けては通れません。
この2つは全人類に共通する運命です。
しかし、私たちは死というものをあたかも衝撃的で不自然なもののように捉えます。
とある哲学者は、人生で最も確かなことは死である、と語りました。人生の先に確かに存在する死が、私たちの人生に彩りを添えるとも言えます。
しかし死が最も自然なものであり、
人生において絶対的に不変のものであるなら、
子供たちでさえ、誰もが死ぬことを小さいころから知っています。
しかしながら、死の床に横たわる愛する人が生死の不可思議な境界線をまたいだなら、誰もがそれを不条理だと受け取り、
最も深いところで心が“こんなはずではない”と訴えかけるのです。
これまでに、この死という現実に当惑を覚えたことがありますか?そのときどのような気持ちでしたか?
私たちは心のどこかで、死がすべての終わりではないことを切実に求めているのです。
死が厭み嫌うものに思えるのは、私たちの魂には
一人で静かな時間を過ごしているとき、ときおり私たちは自身の存在の、時間を超えた超越性をわずかに感じることがあります。まるでもともとは永遠に続く存在として創られたという不思議な記憶でもあるかのように。
おそらく、人間の持つこのような不可思議な葛藤は、聖書の言うように「“死”はそもそも人に計画されていたものではなかった」からなのでしょう。
神から離れた人生を送っていると、すでに『生きて』いないクリスマスツリーのような生気のない人生に飾る、装飾品を探すことにほとんどの人生を使っています。
時間に追われている最中、
しかし、死と向き合ったとき、追いかけていた偽りの栄光たちは視界から消え去り、人生に意味をもたらすたった一つのものが浮かび上がります。
病床で死を目前にしながら、それらを惜しむあまり何よりも学位や銀行残高のことを最後に一目見たがる人の愚かさを考えてみてください。
実際、真実はこうでしょう。息を引き取る瞬間に私たちが深く惜しむものは、それらの財産や功績ではなく、もう交わすことのできない愛なのです。
しかし人の悲しい運命は、愛に忠実に生きたとしても「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」となるべきところを死がどうしても引き裂いてしまうことです。
この世界の愛と呼ばれるものは、必ずと言っていいほど悲劇と隣り合わせにあります。なぜならあまりに簡単に破かれてしまうからです。愛は本質的に“永遠性”を要求するものであり、人間関係全てにおいて、人は永続性を求めているように思えます。
しかし、すべての人間関係が罪による破綻か死による隔絶という結末を迎える事実は、私たちがあるべき姿から堕落したことを裏付けているようです。
聖書が死を最後の敵と呼ぶのはこのためです。(第一コリント人への手紙15章26節)
死は神が私たちに意図したものではなく、罪の結果として入り込み、私たちの家族や友人との関係に侵入しそれらに終止符を打つ存在となりました。
神の愛が死に打ち勝ったという事実は、イエスが地上で行ったミッションに、より深い個人的な意味をもたらします。エデンから追放された堕落の時から今まで、人類は死と腐敗への負のらせん階段を下り続けていました。
そして私たちがすべての希望も力もなくしたその時、イエスは来られ、蘇られて、死の支配を覆されたのです。イエスは天国への上向きのらせん階段に置き換えてくれました。そして、彼を信頼することを選ぶ全ての人は、イエスが彼の運命と私たちの運命を一体にしてくれたように、彼と勝利を共有することができるのです。
なぜなら、未来は神との終わりなき愛の物語だからです。
しかし、人生はそのようなものではありません。
神は、たとえ何が起こっても私たちを手放さない、と彼自身の血を契約の証として約束されました。これは私たちにとって大いなる祝福です。
イエスの復活は私たち人類の復活の「初穂」となりました。彼の復活は、私たちも同様に神の元に復活するという約束をこの世にもたらしたのです。
多くの人は将来を不安に思っているでしょう。しかし、刻々と短くなる人生の残り時間の中で、それが終わってしまう前にできるだけ多くのものを掴み、より多く搾り取りとるというのが、クリスチャンにとっての未来ではありません。
画面をスクロールし、ドアを開き、天国でどんな約束が果たされているかを見てみましょう。
ヨハネの福音書14:1−4
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。
最終的に、私たちの神との物語は天国で続きます。イエスは私たちのために場所を用意してくると言いました。それによって、私たちが彼のいる場所に住むことが出来るようにするためです。
復活の出来事は、
そして神と天国で永遠に暮らせるという約束なのです。
子供の天使がハープ片手に飛び回り、遊びまわっているイメージが有名かもしれませんが、それは聖書的ではなく、昔の宗教画に影響を受けたものです。子供を見つめる親は、少しだけ天国の感覚を経験することが出来ます。実際には何時間も子供の顔を見つめているのですが、彼らにとっては数分にさえ思えることがあります。
愛は私たちを時間から解放するようですね。天国とはそのような場所です。
問題は、私たちはあまりにも長く陳腐で本質的でないものを崇拝してきてしまったために、
そのため天国について考えるとき、私たちにはそれがどこかつまらなく空虚な場所に思えてしまいます。
C.S.Lewisは私たちのそのような状況を、海のリゾートで休暇を過ごす意味を理解せず、泥だんごを作って遊ぶことをむしろ好む少年に例えています。私たちの望みが高すぎることが問題なのではありません。
ルカの福音書9:24
イエスへの追従の誘いは、基本的には彼への信頼と忠誠で結ばれた関係への誘いです。それはイエスへの愛のために自分を捨てることへの誘いでもあるのですが、皮肉なことに、そうすることで自分を見つけるのです。
イエスは、私たちが持っている”自分自分“という永遠の内向きスパイラルの強固な呪縛を手放せと強く嘆願しています。そして、本来あるべき生き方を生きなさいとイエスは呼びかけます。
多くの、特にこれまでの人生を通して失敗を避けることに成功してきた人達は、クリスチャンとしても“失敗”することをことさら恐れます。しかし、それは的外れです。
私たちは、私たちが完璧ではない罪人であると自認しているからこそクリスチャンになるのです。完璧ではないということは失敗するということです。もちろん、例えば結婚や子育てなどを含め、ほとんどすべてのことにおいて私たちは失敗を承知の上で踏み込むでしょう。
しかし、イエスと人生を歩むなら、私たちは自分たちの力のみに頼るのではありません。
「恐れるなかれ」というのは聖書の中で最もよく述べられる命令です。
全知全能の生ける神に応えることは恐れ多いですから、恐れるのも無理はありません。あなたはこのコースを軽い好奇心で始めたかもしれません。そして答えなどないと思っていた疑問の多くに、実際に答えがあることに驚いているかもしれません。もしかしたら、福音のあまりの真実性に当惑しているかもしれませんね。時として福音は、少々驚異的でもあります。
恐れ多くも魅力に満ちた神が、和解と愛の誘いをたずさえてあなたの心の扉をノックしています。
今週の内容に対してあなたはどのような見解を持ちましたか?
今日クリスチャンになる決断を妨げているものはありますか?