心の中からの証拠
もし聖書が実際に創造主からの何らかの啓示だとすれば、
人間についての細かい情報が含まれているでしょう。
例えば、こんなことを想像してみてください。世界では全人類が滅亡して、
何台かの車がなぜか意識を持って生き残りました。
この車たちは集まって自分たちの存在について議論し始めました。
「俺たちは何者なんだ?」

ある車は自分たちが巨大な文鎮(ぶんちん)なのではと思い、さらに自分たちは結局生きた硬貨でしかない、と考える車もでてきました。満足のいく答えの出ないまま過ごしていると、全員が

「自分たちはとりあえず作られた何かなのだ」という答えに辿り着きました。

その時、一台の車が「取扱説明書」と書かれた本を発見し、他の車たちの前ですべての謎を説明し始めました。

その本には、なぜ自分たちがガソリンを必要とするのか、ドアや座席とは何なのかが書かれていました。

それだけでなく、その本に書かれた通りにボンネットを開いて中をのぞくまで自分たちでさえ気づいていなかった部品のことまで書かれていました。

車たちは、この本の作者はよほど自分たちのこと。自分たちがどうやって作られたかをよく知っていてに違いない、気づきました。

このたとえの中で、取扱説明書の正当性は車たちが自分のことを考察する、顧みることによって証明されましたよね。

同じように、私たちもオープンな心を持ち、自分自身を顧みながら聖書を読むと、私たちに関する非常に深い記述、私たちを創った存在にしか知りえないような記述があることに気づきます。

聖書を勉強すると、聖書に個人的に語りかけられているようなドキドキする瞬間にたくさん出会います。
所属する
無条件の愛
意味
喜び
安定感
繋がり
永遠
平安
休息
目的
コミュニティ
不安定
恐れ
嫉妬
迷子
落ち着きがない
満たされない
壊れた
心配
孤独
競合する
目的がない
そうして、聖書が私たちの
本当の姿を表し、
どう表現すればいいのか分からなかった
奥深い願望に語りかけている、
と気づいていきます。
まるで作者の方が自分よりも自分のことをよく知っているのでは、と感じ本当に聖書はもしかしたら
創造主の言葉なのかもしれない、と考えるようになります。
これは私の話
聖書の御言葉があなたの人生と心に触れた経験がありますか?

聖書の信頼性に関する証拠についてどう思いますか?少し

考えてみてください。

これで第3章の最初の部分が完了します。

詳細については、第3章のPDF版をここで見ることができます。他にも、以下を見ると、聖書に関しての個人的な経験を聞いたり見ることができます。